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                    豊橋市札木町117の3    井伊  弘
 

 

我が井伊家が信楽に至るまでの道程



今年の大河ドラマの主人公である井伊直虎が手塩にかけて育て上げた初代彦根藩主井伊直政には正室に長男直継(

直勝)、側室に次男直孝、他1女がいた。長男、次男ともに同い年であるが、直政は二人が子ども(13歳)のとき

に関ヶ原の戦いの鉄砲傷が元で42歳のとき彦根で亡くなっている


その後、1603年長男直継が12歳のとき、家康の命を受け尾張藩や越後藩など12大名の応援を得て、彦根城を築城し、

彦根城主となった。それに対し、次男直孝は幼少期井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育され、

1602年の直政の死後は江戸にあって徳川秀忠の近習として仕えていた。

 


彦根は朝廷・西国大名の監視として最重要地点であったので、家康が育て、武力・知力に秀でた井伊直政を彦根に赴

任させ初代藩主とし、長男直継は1614年大阪冬の陣に病弱のためとして出陣せず、次男直孝が家康の命により大

坂冬の陣に大将として出陣した。

 


その後、家康の命により、直孝に旧武田家家来200名程と徳川家旗本を付けて彦根城に入り2代目藩主にすることで

徳川幕府を盤石な政治体制とした。

 

直継改め直勝については彦根城を弟に明け渡し、井伊谷からの古参の家来100名程を伴って安中へと向かい、安

中藩主となった。

 

なお、次男直孝は幾度も藩主になることを辞退したが直政の残した物全てを長男直継に持たせたとのことであった。

 

その後、安中藩の井伊家は三河西尾藩、掛川藩3代と移封したが、井伊直朝が25歳の時、体調不良による参勤交

代延期申し出をし、そのために改易となったが、当時、直朝の正室は彦根藩主で大老であった井伊直興の娘であり、

直興の四男である直矩を直朝の養嗣子に迎え、父直興のお陰で井伊家として取り潰しは免れ、その直後、直矩は越後

与板の藩主となった。なお、井伊谷以来の家臣であった小野氏、中野氏は代々与板藩家老であったとのこと。

 

その後直朝の子は彦根藩預かりとなり、現在の滋賀県蒲生郡野町に領地をいただいたが、直朝は35歳で亡くな

り、その後、加藤家の水口藩が5,000石加増となったおり、住んでいた日野も水口藩の管轄になったこともあり、水

口藩の客分となり、
3代程経てから、幕末に長男家と次男家に別れ、明治になり長男家は後継ぎが無く、次男は水口

から移住して信楽に住み、
よろい、かご、刀束が昭和60年頃までは信楽の実家にあった。なお、江戸時代まで名前に

直をつけるのを許され、おもり役として彦根藩の家老で元武田家家臣がついてきてくれていたという文献が残ってい

る。


余談であるが、井伊直勝は当初から幕府に掛川藩に移封を希望していたが、それは祖父井伊直親が掛川城下で謀殺さ

れたということの理由とのことであった。また、
井伊直勝、掛川藩主直好直武3代の墓は「可睡齋」(袋井市)

にあります。


なお、下記の井伊谷時代における
家系図においては一部において諸説ありますので、ご容赦ください。

以上